昭和41年12月05日 朝の御理解



 勤めて実意丁寧にならせてもろうたり、実意丁寧にさせて貰うたりするということは、有難い事だけれども、これでは疲れる。信心したら実意丁寧にならん、ならん実意丁寧のおかげを頂かなければならんと、ね、だから実意丁寧にならなきゃと言うて、実意丁寧にするのは勤めてするのだから、必ず疲れる。ですから実意丁寧にならせてもらわなければさせてもらわなければ、おられないというために、御互いが真剣に有り難くならせて頂く、信心の稽古をさせてさせて貰わなければいけん。
 真に有難いという心、すぐにみかげの始まりと仰る。有難いという心、有難い有難いという心が生まれてきたら、実意丁寧にしなければおられませんものね。例えば朝目を覚ます。本当におかげで、今朝も御目覚めのおかげを頂いて、有難いと真に思うたら、とても布団の一枚一枚を押し拝んで、そして綺麗に畳まなければ、丁寧に片付けなければおられんです。ね。例えば三度三度の御食事が頂けれると、いうことが本当に有難い、有難うございますといいよるけれども。
 本当に有難うございますといいよらん証拠に、不平が不足が出る。ね、そこにいわゆる御食事の仕方が、実意丁寧にならなければおられんのです。ね。ですから私共が有難いと言う、その有難いというのも検討してみるとです、本当に有難いというのではないことに、大変気づかせて頂くのでございます。ね。勤めてする実意丁寧がいけないというのじゃありませんけれども、これは疲れます。ね。やっぱり勤めてもしなければなりません。有難か時だけ、実意にすればよいというのではありません。ね。
 それはやはり疲れます。ね。けれども有難いというときには、実意丁寧にならなければ、させて貰わなければおられんのだ。ですからさせて貰えずにはおられんのですから、疲れる筈がありません。先ず先ず有り難くなるばっかり。そういう真剣に有難いという信心を求めさせて貰う。そして本当に実意丁寧の御信心ぶり、ならせて貰わなければ、私は本当のおかげ、それこそ夢にも思わなかった、おかげと言った様な、おかげには進展して参りませんね。御願いをする、御取次ぎを頂くおかげは頂きますよね。
 けれども、夢にも思わなかったようなです、ありがたい大きなおかげにはなってきません。また徳も受けられません。ね。徳を受けるからその夢にも思わなかった様な、願っても見なかった様な、おかげになって現れて来るのです。ね。教祖の神様の御信心なんかを、金光大神なんかを拝書させて頂きますと、本当にそれをやはり感じます。実意丁寧におありになったというのは、中身が有難うあられたんです。だから実意丁寧にならなければおられなかった。しなければおられなかったのですね。
 教祖の神様の場合。ここんところをですね、間違えますと実意丁寧になると、そげなろくそなか言葉つこうてから、そげなろくそなか事してから実意丁寧にせんか、実意丁寧にまいっちょものの言い方せんか、というだけではやっぱりいかんようですね。なるほどそれも努力しなければいけません。けれどもおのずとです、(?)に実意丁寧にならなければおられない内容です。
 有難いなら絶対大事にしなければおれませんもの、今私が申しますように。布団一枚でも本当に、本当にこの寒いのに寒い思いもせんで布団のおかげで、おかげ頂いてありがたかったとおもえなければね、とてもろくそな畳みかたは出来ませんよね。実意丁寧に畳まなければおられませんよね。もう一時が万時そうなんです。有り難くなればそうなんです。実意丁寧にしなければおられないのです。
 そこに私が今日申します皆さんがね、本当にお道の信心をさせて貰うならですね、もう自分の願いが成就するくらいな小さな願いではいけないです。本当に思いも掛けない神様の本当に、夢にも思わなかった様なおかげに、ね、進展してくる。そういうおかげに進んでくる、おかげを頂かせて頂くためにです、ね、本気でひとつ有難うならせて貰うという為にですね、精進させてもらいそこから、実意丁寧がいよいよ身に付いてくる。疲れない。楽しゅうなる。
 有難なれて来たのだから仕方がないようなもんだけれどい、から実意丁寧になる。実意丁寧になるからおかげを頂く。おかげを頂くから、実意丁寧にいよいよ深められていく。段々実意丁寧が本当の実意丁寧になってくる。ありがたいものもいよいよ本当のありがたいになってくる。本当に真に有難いという心なのです。真に有難いという心はね、天地に通うのです。神様に通うのです。真に有難いという心は。ね。昨夜の御祈念の後でした、善導寺の原さんが御届をされます。
 昨日一昨日が親教会の記念祭でしたから、鹿児島の方から、御信者さん方がみえれおられます中に、原さんの弟さんも私の紹介で、鹿児島の行徳先生の所で御神縁を頂いて13年になる。大変よい信心を頂いて、信心もびっくりする位成長しておられるのが、これはだれでも感じられる。もう最近は有難さがもう人に伝えられ、さわらなければおられない。もうあらゆるそのあっちこっちの共励会でも、お話しに回って原さんのお話しを聞こうというて、皆が楽しんで待って下さる程に、おかげを頂いておられる。
 ですから言うなら、私が一番初めに導きの親だもんですから、こちらに帰って来られ、こちらが勿体島が里ですから帰ってこられると必ずここへ御礼に出て見えられるんです。おとといも見えられました。今朝も御祈念に参っておられます。そしてです帰る道々お姉さんであります原さんに話されるんです。私共は有難い先生を頂いて、有難いんだけれどもう本当、私は今日ほど椛目の先生のお話を頂きながらですね、身震いが出るほどの有難さを感じたとこういう。
 今朝の朝のご理解は。皆さんも今朝の朝のご理解を頂かれたんですけれど、ほんと身震いが出る程有難かった。毎日毎日あなた達は、お話を聞いておって下さっておるから、慣れて来たのだから、仕方ないようなもんだけれども、頂く心ではです、やはり身震いの出るようなお話しであったご理解であったと、ほんとにここにおかげを頂いておると言うことは、本当に皆さん達は幸せだと言うて帰られた。
 昨日はあちらの先生の、若先生の先頭で十五名の御信者さん我他が、甘木の教会にお参りされた。向こうの河北のほうを通って甘木に行かれた。して甘木をお参りをされて帰りを田主丸のほうへ来られた。そしてあの御造営の現場を通られてから、行徳先生がこりゃなんじゃろうか、えらい大きな家ん立ち寄る、コリャなんじゃろうかと言われたから、前の日あちらは見に行っておられます。
 これはあの椛目ですち、椛目の広前の御造営のありよる所ですよ、聞かれたらもうそれこそびっくりしてしまって、それこそ一同十五名のものがそれこそびっくりしてしまって、今度鹿児島にも鉄筋コンクリートで、立派なお広前がでけた。それがとても自慢お話しでした。原さんの話じゃご造営がでけた、こっちもご造営がでけたそうですね。所が自分自身も行ってから、もう唖然とするごとびっくりされた。原さんが一緒についていかれた。同時にそして隅から隅まで行き届いておるのに驚いてしもうた。
 びっくりしておられたと言う。私はそれを聞かせて頂いてからですね、私は世の中の多くの人達に本当にひとつ、本当にびっくりして貰わなければ、神様に対して、相すまんと思うた。こりゃ私はね、慢心で私が立てたのならばです、けども神様がです、ほんとに言うならば、あの深田の大して値打ちのなかったような所が、昨日のあれだけやじまでされて、あの高高といいだけでけて、しかもあそこにああした、お広前が建立されておると言う事はです。
 本当にあそこに忽然として、あのお広前がなにか力が湧いた様にして、出来ておるものですからね。私自身が行く度にたまがりますもん。始めてみた人がびっくりする筈です。まして、私を知っておる人なら尚たまがるですよ。大坪さん大坪さん大坪さんがああなって、こう思っておるから尚びっくりするです。ね。だから私は私が自慢する所は何もないですけれども、天地の親神様がそうした、特別の御働きを御造営の上に御表しになっておられ、いや神様の姿が、ああして現れておるのであるからです。
 やはり信者の方達がです、ね、初めの間はそうでもなかったけれどもです、段々出来あがっていくに従って、なるほど神様じゃなあと言うて、びっくりしているというてです、ね、多くの沢山の人にびっくりして貰わなならんと思うです。ね。特に皆さんもですたい、皆さんの身辺、自分の信心の上にも家庭の上にもです、人がびっくりする程変わってござる。椛目に参りよりなさるが本当に、ちょいとあの人の変わりようというものは本当に、りょうけにおよばんと。
 本当やっぱりびっくりする様なおかげを頂いちゃるて、と言う様にです、そういう人がびっくりするような、おかげを頂かなければです、神様に対してあいすまん。出来るだけ沢山の人にびっくりして貰わなければならん、ね、人の世教祖の神様の奥城に参りますと、奥城のいわゆる贈名教祖の御霊の神様の名前です「人力威乃命」と書いてございます。ね、人間の真心が、人間の真に有難いという心が、ね。
 それこそ世の中のあっと言う様に、風靡するような、本当に皆がびっくりするような、人をびっくりさせるような御方であったという意味であろうと私は思うのです。人力威乃命。その信心を頂いておる私たちなのですから、私達はやはり人がびっくりするような、おかげを頂いてこそ神様に対するところのいわば、ご恩に報いるというのはそれだと私は思う。ね。その人がびっくりするようなおかげを頂くためにはです、いくら忽然として、(?)それこそ、ね、(?)その(?)というのがあります。
 ですからあれが忽然と、本当にあそこのお広前が建立された、力が湧いた様にとこう言うのですけれども、あれがあるのはやっぱり、あぁある元があるのです。それはどういうことかというというならば、ね、御取次ぎの御徳、金光大神の御徳、親先生の日夜の御祈念のおかげを下さっておると同時にです、やはり私の真にありがたいという心があれなんです。ね。御互いが言うておる、有難さというものがです、本当に天地に通うような、天地に交流するような、有難さであるかどうかと。
 いや本当に実意丁寧ならなければ、おられないほどの、有難さかどうかということを、確かめれば、一番間違いないと思うですよね。実意丁寧に、一粒の水でも米でも、押し頂かなければおられないという心なんだ。ひとすくいの水でも、押し頂かなければおられない心なんだ。不平の段じゃない不足のだんじゃない、(?)不平ばかりではないか、不足ばかりではないか、それでは私は実意丁寧な(?)と私は思う。ただ(?)は実意丁寧だから、垢がでる。
 有難いという心から生まれてくるところの、いや生まれてくるじゃない、有難いなら実意丁寧にならなければおられないのだ。ね、おかげでこの布団のおかげで、今日も寒い思いもせんで、おかっげを頂いて有難いと、本当に有難いと思うたら、そのやはり布団に御礼をいわなければおられない、御礼をいわなければおられない、その布団をろくそなたたみ方ではいけんと言う事になりましょうが。 
 実意丁寧にならなければおられん、お道の信心の生命はやはり実意丁寧神信心。それにはまず、私共が本気で有り難くならせて頂く、稽古をさせて貰わなければいけん。そして、実意丁寧、真に有難いという心が、実意丁寧にならなければおられないのであり、その実意丁寧の信心になるから、神様が喜んで下さるから、また、喜びを贈って下さる。また、だから実意丁寧にならなければ、おられないと言う様にです、実意丁寧が段々段々広がっていく、喜びが有難いが広がっていく。 
 そこに私は人には驚かすような、それこそびっくりするような、ね、おかげが頂けてくるようになると、私は思えるのですよ。ね。御互いの有難いというておる、その有難いをです、もう一遍検討して見なければいけません。有難いというておる、その有難いという心が本当に、実意丁寧につながっておるかどうか。ね、それが繋がっておって、初めて私の有難いが本当のものに、なっていくのではないでしょうかね。
   どうぞ。